母との別れ
2018年08月27日
親は、いつまでも生きているものと思って甘えて来た。いつかは別れなければならないとはわかっていても。
S.7年の申年の満年齢86歳。4人の子供産み育て、苦労した母です。
H30.8月19日午後の7時39分永眠しました。
贅沢も知らない、素朴の人でした。その母が少しづつ痩せてきたなーと思いつつ。
「どこも痛くないの?、体調は大丈夫?」と聞いても「いや、便秘するぐらいでどこも痛くない」と。
今年の初めに今年の運気を見るのに、弟が戌年の還暦、母は五黄土星の、北の宮に入るので案じていました。
家族の者が干支の年は注意する年と言われています。
家族に戌年の者が居れば更に本人並びに、運気の悪い家族の人に当たるとも言われています。
奄美では干支でお祝いしますね。還暦も干支、次は70歳の喜寿祝いはせず73歳の干支で祝い次は85歳の干支で祝います。
その後からは88歳の米寿祝。99歳の白寿と本土と合わせて祝います。
それくらい、干支の年はお祓いも含めた「年の祝い」なのです。
85歳の干支の年は我が家で、甥っ子、姪っ子たちを呼んでささやかな祝いをしました。
母は6人兄弟の末っ子です。兄弟姉妹はすでに他界してます。
甥っ子姪っ子達は、最後のたった一人の叔母さんを大切に思ってくれました。
85歳の干支の祝いも、母は遠慮して、会場ではなく、我が家でならしてもいいと。
この時の母の嬉しそうな顔、声。ビデオに記録されたのが、何よりの家族の宝物となりました。
今年は2月、3月と「せごどんのユタ神様指導」で忙しく、沖永良部島、東京と出かけることが多くて、全てが終わり、ホッとした4月に
母から「足が立たない、トイレ迄、歩けないので入院したい」との申し出がありました。
それならと、介護申請と同時に入院させました。
食事も余り進まない状況だったので、一通りの検査を病院で受けた結果が「肺がんの末期」と宣告されました。
「なんでこんなに大きくなるまでわからなかったのですか?病院には行かなかったの?」
医者のこの言葉に「病院に行かない人でした」と答えるしかありませんでした。
私たちは病気の事は「不告知にしてください」とお願いしました。
兄弟姉妹で決め事をして「緩和ケアーのみ」お願いをしました。
私は神様に母の最後の日をお尋ねしないといけない。でもしたくない、でもしないといけない。
葛藤の中で尋ねる事にしました。5月の頭の頃でした。なぜなら母は誕生日が5月12日だったからです。
誕生日の頃が第一関門と思ったからです。
その月は元気そうに食事も取れてましたのでまだ危機感はありませんでした。
答えは「7と11」という数字。「7月?11月?」私は「母が天に上がる月はいつですか?」と尋ねましたので。
6月も過ぎて7月も過ぎていく。最ッと、もっと生きててほしい、痛みもないのか、平然としてるので。
毎日、昼ご飯の時間、夕ご飯の時間は子供たちが割りふりして、食事介助に出向いた。
母を家でいるような環境づくりしようと話し合い結束したのです。
その時はやって来た。8月19日土曜日の朝ご飯、昼ご飯の介助に行きました。私が当番でした。
その日は朝ご飯にはなかなかいでけてないので、何となく気になって見に行きました。
食膳は片付けられていて、
「たべた?」と聞くと「食べたー」と苦笑いする。看護師さんが来たので聞いた所「食べてないと」の事。
「食べないと元気になれんよ」「お昼に又、来るね」と。うんうんとうなずいて。
「神様!!母を、痛み、苦しみなく天にお供してくださいよーと」毎日、願うことでした。
その日の夕食の時間はわたしの娘が行きたいからと孫娘が担当、私の妹と二人で食事介助に。
娘が「食事も進まない。飲み込み切れない、おかしいー」との事で、呼び出された。
後、10分で着くからと伝えたが、間に合わなかった。
7月も過ぎた。
今は8月だし、11月が危ないかもと自分に都合のいい様に考えるものです。
母の最後は匙で島のミキをくちに含んでそのままスーッと息を引き取ったとの事でした。
おりしも台風19号が接近してくる。
慌ただしく、看護師さんが母の最後の処理をして葬儀屋さんに連絡、搬送、泣いてる暇もない
葬儀屋さんが台風情報が二転三転してるので8月22日が危ないので21日に告別式と相談の上、決定した。
決定したので日柄は?と思い暦をめくったら何と旧暦カレンダーは「7月11日」となってるでは
ないですか。
神様は教えてるのに、11月であってほしいと引延ばし、自分の都合。思い込み。
親の最後を聞く辛さ、覚悟はしていても、これも神様がぼさっとさせてくれたのかもと思う事でした。
「今日までこの世の飯を食べ納め、明日はあの世の天にの人」
願ったり、叶ったり、痛みなく、苦しみなく、天に上げてくださいました。
天の神様、ありがとうございます。ご先祖様ありがとうございます。感謝、感謝、です。
ご両親をたいせつに、親孝行されて下さい。神様のご加護に感謝して。とうとがなし。
S.7年の申年の満年齢86歳。4人の子供産み育て、苦労した母です。
H30.8月19日午後の7時39分永眠しました。
贅沢も知らない、素朴の人でした。その母が少しづつ痩せてきたなーと思いつつ。
「どこも痛くないの?、体調は大丈夫?」と聞いても「いや、便秘するぐらいでどこも痛くない」と。
今年の初めに今年の運気を見るのに、弟が戌年の還暦、母は五黄土星の、北の宮に入るので案じていました。
家族の者が干支の年は注意する年と言われています。
家族に戌年の者が居れば更に本人並びに、運気の悪い家族の人に当たるとも言われています。
奄美では干支でお祝いしますね。還暦も干支、次は70歳の喜寿祝いはせず73歳の干支で祝い次は85歳の干支で祝います。
その後からは88歳の米寿祝。99歳の白寿と本土と合わせて祝います。
それくらい、干支の年はお祓いも含めた「年の祝い」なのです。
85歳の干支の年は我が家で、甥っ子、姪っ子たちを呼んでささやかな祝いをしました。
母は6人兄弟の末っ子です。兄弟姉妹はすでに他界してます。
甥っ子姪っ子達は、最後のたった一人の叔母さんを大切に思ってくれました。
85歳の干支の祝いも、母は遠慮して、会場ではなく、我が家でならしてもいいと。
この時の母の嬉しそうな顔、声。ビデオに記録されたのが、何よりの家族の宝物となりました。
今年は2月、3月と「せごどんのユタ神様指導」で忙しく、沖永良部島、東京と出かけることが多くて、全てが終わり、ホッとした4月に
母から「足が立たない、トイレ迄、歩けないので入院したい」との申し出がありました。
それならと、介護申請と同時に入院させました。
食事も余り進まない状況だったので、一通りの検査を病院で受けた結果が「肺がんの末期」と宣告されました。
「なんでこんなに大きくなるまでわからなかったのですか?病院には行かなかったの?」
医者のこの言葉に「病院に行かない人でした」と答えるしかありませんでした。
私たちは病気の事は「不告知にしてください」とお願いしました。
兄弟姉妹で決め事をして「緩和ケアーのみ」お願いをしました。
私は神様に母の最後の日をお尋ねしないといけない。でもしたくない、でもしないといけない。
葛藤の中で尋ねる事にしました。5月の頭の頃でした。なぜなら母は誕生日が5月12日だったからです。
誕生日の頃が第一関門と思ったからです。
その月は元気そうに食事も取れてましたのでまだ危機感はありませんでした。
答えは「7と11」という数字。「7月?11月?」私は「母が天に上がる月はいつですか?」と尋ねましたので。
6月も過ぎて7月も過ぎていく。最ッと、もっと生きててほしい、痛みもないのか、平然としてるので。
毎日、昼ご飯の時間、夕ご飯の時間は子供たちが割りふりして、食事介助に出向いた。
母を家でいるような環境づくりしようと話し合い結束したのです。
その時はやって来た。8月19日土曜日の朝ご飯、昼ご飯の介助に行きました。私が当番でした。
その日は朝ご飯にはなかなかいでけてないので、何となく気になって見に行きました。
食膳は片付けられていて、
「たべた?」と聞くと「食べたー」と苦笑いする。看護師さんが来たので聞いた所「食べてないと」の事。
「食べないと元気になれんよ」「お昼に又、来るね」と。うんうんとうなずいて。
「神様!!母を、痛み、苦しみなく天にお供してくださいよーと」毎日、願うことでした。
その日の夕食の時間はわたしの娘が行きたいからと孫娘が担当、私の妹と二人で食事介助に。
娘が「食事も進まない。飲み込み切れない、おかしいー」との事で、呼び出された。
後、10分で着くからと伝えたが、間に合わなかった。
7月も過ぎた。
今は8月だし、11月が危ないかもと自分に都合のいい様に考えるものです。
母の最後は匙で島のミキをくちに含んでそのままスーッと息を引き取ったとの事でした。
おりしも台風19号が接近してくる。
慌ただしく、看護師さんが母の最後の処理をして葬儀屋さんに連絡、搬送、泣いてる暇もない
葬儀屋さんが台風情報が二転三転してるので8月22日が危ないので21日に告別式と相談の上、決定した。
決定したので日柄は?と思い暦をめくったら何と旧暦カレンダーは「7月11日」となってるでは
ないですか。
神様は教えてるのに、11月であってほしいと引延ばし、自分の都合。思い込み。
親の最後を聞く辛さ、覚悟はしていても、これも神様がぼさっとさせてくれたのかもと思う事でした。
「今日までこの世の飯を食べ納め、明日はあの世の天にの人」
願ったり、叶ったり、痛みなく、苦しみなく、天に上げてくださいました。
天の神様、ありがとうございます。ご先祖様ありがとうございます。感謝、感謝、です。
ご両親をたいせつに、親孝行されて下さい。神様のご加護に感謝して。とうとがなし。
Posted by コメジロー at
00:31
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小さな親切
2018年08月18日
昨日の出来事。(H30.8月17日金曜日)
奄美の島唄の大御所であられる「朝崎 郁恵」さん出演される「神の唄第一章」のオープニングセレモニーに行く途中
少し到着には早いので、手前の大型ストアー「ビックツー」で買い物をして、駐車場に戻る途中の出来事でした。
私の20メートル先に両手に買い物袋を下げた70歳~80歳手前位のおばあさんが、右に、左に肩を揺らしながら歩いていました。
誰か、家族の者が追いかけてくるのだろうと思い、自分の荷物を車に納めて、運転席に回ろうと、その方の方に目を向けると、右の荷物を地べたに置きながら、一息して透けた袋からは。アルミニウムの鍋とふたが見える。「あれ?誰もこないのかな?」と暫く見ていたら、今度は左の荷物を置いて休憩したので、「あらー!私も急がないと開演にまにあうかな?」と一瞬頭を、よぎった。
でも、周りには身内らしい人は見当たらず、私は、近づいていき声をかけました。
「重たそうですが、お手伝いしましょうか?」と。見知らぬ私に、「ありがとうございます」と言われたので、鍋の入った袋を持ち、
「どこまで行かれるのですか?」と聞きました。
「大笠利まで、あの、バス停まで」と。「わかりました。お供しますね。」と渡る横断歩道が見当たらない。
少し遠い所にあるではないですか!
「あら!おばちゃん!あそこまで歩かないと渡れんよ!頑張ってあるいてね」と声かけた。「えっ~向こうまで?」と。
もしかして、バスで来たなら、横断歩道は渡ってないし、たぶん、私がついてなかったら、ずーっと、車の流れが止まるのを眺めていたかもしれないと。
「えっ!そこまで歩くの!」と、私の後ろからついてきましたが信号があるわけではないので、5時から6時の間の交通量は流れっぱなし
横断歩道の前に旗がさしてあり、私はその旗を持ち、車の切れをまちました。
暫くすると右折、左折の車があり、車が切れたので旗をもって「おばちゃん!今わたるよ!」と声掛けて、無事渡り、少し歩いた先の停留所まで
導きおわりました。
「はあ!すごい車だね。おばちゃん一人では危ないね、誰かと買い物きた方がいいですよ」
と伝え、帰りました。
思う事は、小学校の頃の学校教育の中で「小さな親切運動」とあり
「目についたゴミは拾いましょう」とか
「お年寄りに席を譲りましょう」などバスの利用している時代、よく言われたものでした。
その時の判断が、自分の裁量の範囲の中であると思われれば、出来る事をさせて頂く。
その先に向かいながら、思う事は
あのおばあちゃんは、停留所の前から手を挙げて、無理やり渡ったかもしれない。
もしそうだったら車は、二重、三重、衝突したかもしれない。
「えっ~!あそこまで!あるくの~!」とつぶやいた力のない声がそう思わせたのだ。
すこばかり、いい事で来たかな?と清々しく、会場向かいました。
幸いに、開演に間に合い、前席で素晴らしいオープニングセレモニーを見ることができました。
お年寄りの今までのご苦労のおかげで、平和な国あり。大切にしたい心がけです。とううとがなし!感謝。
奄美の島唄の大御所であられる「朝崎 郁恵」さん出演される「神の唄第一章」のオープニングセレモニーに行く途中
少し到着には早いので、手前の大型ストアー「ビックツー」で買い物をして、駐車場に戻る途中の出来事でした。
私の20メートル先に両手に買い物袋を下げた70歳~80歳手前位のおばあさんが、右に、左に肩を揺らしながら歩いていました。
誰か、家族の者が追いかけてくるのだろうと思い、自分の荷物を車に納めて、運転席に回ろうと、その方の方に目を向けると、右の荷物を地べたに置きながら、一息して透けた袋からは。アルミニウムの鍋とふたが見える。「あれ?誰もこないのかな?」と暫く見ていたら、今度は左の荷物を置いて休憩したので、「あらー!私も急がないと開演にまにあうかな?」と一瞬頭を、よぎった。
でも、周りには身内らしい人は見当たらず、私は、近づいていき声をかけました。
「重たそうですが、お手伝いしましょうか?」と。見知らぬ私に、「ありがとうございます」と言われたので、鍋の入った袋を持ち、
「どこまで行かれるのですか?」と聞きました。
「大笠利まで、あの、バス停まで」と。「わかりました。お供しますね。」と渡る横断歩道が見当たらない。
少し遠い所にあるではないですか!
「あら!おばちゃん!あそこまで歩かないと渡れんよ!頑張ってあるいてね」と声かけた。「えっ~向こうまで?」と。
もしかして、バスで来たなら、横断歩道は渡ってないし、たぶん、私がついてなかったら、ずーっと、車の流れが止まるのを眺めていたかもしれないと。
「えっ!そこまで歩くの!」と、私の後ろからついてきましたが信号があるわけではないので、5時から6時の間の交通量は流れっぱなし
横断歩道の前に旗がさしてあり、私はその旗を持ち、車の切れをまちました。
暫くすると右折、左折の車があり、車が切れたので旗をもって「おばちゃん!今わたるよ!」と声掛けて、無事渡り、少し歩いた先の停留所まで
導きおわりました。
「はあ!すごい車だね。おばちゃん一人では危ないね、誰かと買い物きた方がいいですよ」
と伝え、帰りました。
思う事は、小学校の頃の学校教育の中で「小さな親切運動」とあり
「目についたゴミは拾いましょう」とか
「お年寄りに席を譲りましょう」などバスの利用している時代、よく言われたものでした。
その時の判断が、自分の裁量の範囲の中であると思われれば、出来る事をさせて頂く。
その先に向かいながら、思う事は
あのおばあちゃんは、停留所の前から手を挙げて、無理やり渡ったかもしれない。
もしそうだったら車は、二重、三重、衝突したかもしれない。
「えっ~!あそこまで!あるくの~!」とつぶやいた力のない声がそう思わせたのだ。
すこばかり、いい事で来たかな?と清々しく、会場向かいました。
幸いに、開演に間に合い、前席で素晴らしいオープニングセレモニーを見ることができました。
お年寄りの今までのご苦労のおかげで、平和な国あり。大切にしたい心がけです。とううとがなし!感謝。
Posted by コメジロー at
18:00
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人助け
2018年08月17日
凄い!ニュースが飛び込みましたね。
山口県周防町大島の行方不明になった藤本理稀ちゃんが3日ぶりに発見されましたね。
本当に良かったです。日本中が心からほっとして喜びを感じた事と思います。
ボランティアで捜索活動していた尾畠 春夫さん(78歳)はすごい方ですね。
学歴もないのに、ここまでこれたのは、社会のお陰、これからは、社会にお返しして行くと。
人の生きざま、ボランティアの意味をあらためて見させて頂きました。
本当にありがとうございます。と頭がさがります。
15歳から魚屋さんで働き、魚屋を営み65歳で経営を終わらせる。
計画どうりに生きて来られて、この方には、心の中に声を発する、内なる神様が宿っています。
「心の声」皆さんにも、全ての人が持ち合わせる「あなたの守り神様」です。
78歳の尾畠さんは多分昭和15年の辰年か16年の巳の年だと思われます。
生まれた年からS.20年は戦争の時代です。
学問、学歴、どころか生きることに精いっぱいの時代です。
周りの人のお陰様を沢山、見たり、聞いたり、受けたりした時代の方です。
でも、この年齢での、ボランティア活動は、よほどの精神と、肉体が揃ってないとできません。
水の神様、辰年、巳の年、よしき君を助けてくれたのも「沢の水」
それを見つけてくれたのも、、巳年、辰年、水につながる干支の方
「感の冴えわたる」神様の洞窟導きと思えてなりません。
お盆期間のご先祖様のお力も頂けた事と感謝、感謝ですね。
とうとがなし!陰月竜宮の神 090-2713-2723
山口県周防町大島の行方不明になった藤本理稀ちゃんが3日ぶりに発見されましたね。
本当に良かったです。日本中が心からほっとして喜びを感じた事と思います。
ボランティアで捜索活動していた尾畠 春夫さん(78歳)はすごい方ですね。
学歴もないのに、ここまでこれたのは、社会のお陰、これからは、社会にお返しして行くと。
人の生きざま、ボランティアの意味をあらためて見させて頂きました。
本当にありがとうございます。と頭がさがります。
15歳から魚屋さんで働き、魚屋を営み65歳で経営を終わらせる。
計画どうりに生きて来られて、この方には、心の中に声を発する、内なる神様が宿っています。
「心の声」皆さんにも、全ての人が持ち合わせる「あなたの守り神様」です。
78歳の尾畠さんは多分昭和15年の辰年か16年の巳の年だと思われます。
生まれた年からS.20年は戦争の時代です。
学問、学歴、どころか生きることに精いっぱいの時代です。
周りの人のお陰様を沢山、見たり、聞いたり、受けたりした時代の方です。
でも、この年齢での、ボランティア活動は、よほどの精神と、肉体が揃ってないとできません。
水の神様、辰年、巳の年、よしき君を助けてくれたのも「沢の水」
それを見つけてくれたのも、、巳年、辰年、水につながる干支の方
「感の冴えわたる」神様の洞窟導きと思えてなりません。
お盆期間のご先祖様のお力も頂けた事と感謝、感謝ですね。
とうとがなし!陰月竜宮の神 090-2713-2723
Posted by コメジロー at
11:32
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