癌から学ぶ
2023年06月01日
令和2年62歳で亡くなった弟は本当に可哀そうな想いでいっぱいでした。
肺がんを宣告された時で放射線治療を望み私も情報を取り、川崎市の病院
で「サイバーナイフ」治療を受けさせた。
その後は島の病院に差し戻された。結果
は3か月後にしかちいさくなってるかはわからないとの事。暫くして「抗がん剤治療」を勧められて
いた。
本人は川崎市に時でも既に足がフラフラ状態で飛行機に乗せるのも車椅子クレーン車
降りるときもである。
そんな弟を慣れない電車の乗り継ぎをしながら連れていく私もへとへとでした。
「普段から歩いてないからだよ」と一言は愚痴った。
島に帰省して少しは放射線サイバーナイフ治療をしたことで落ち着いていたが島の
担当医は矢継ぎ早に「抗がん剤治療」をすすめてきた。
当然な医療の世界である。
何クールを言われたのか。
後1回で終わる頃まで最悪なコロナで面会出来ず
面会出来た時には70キロ位あった体重は50キロの瘦せてフラフラの弟の姿!
思わず絶句!
今後の「治療方針」を話し合いたいと呼ばれたのです。
「抗がん剤治療の効果は?」の問いに「余り効果が見られない」と
それであとの最後の抗がん剤治療をして次の抗がん剤治療に移行したいと思います。
との言葉に
「やめた方がいいと思います。私が決めることは出来ませんが体力的に耐えられない
と思います。」
弟
は自分でも判断が出来なくて私に相談したかったようでした。
「最後ですので今なら白血球の値も上がってますから耐えられるので。」
私が
いい結果も出てないし、癌も小さくなってないのでやめなさいと忠告したのに打たせたみたいでした。
その後にこれ以上抗がん剤治療はしないとの選択に緩和ケア病院を言われたのです。
本人はその後サイバーナイフの担当医に電話したようでした。
「もう一度いきたいと思います」と。
抗がん剤治はもう少し後でも良かったのではと本人が思ったみたいでした。
所が不運にも時はコロナで飛行機も減便!本人の体力もない。
希望を失い失意の日々を悶々と過ごすことになったのです。
私的にはこれが彼の「健康に対す意識の低さ」と認識してても
「何とかしてあげたい」の祈りをする日々でした。
「普段からいつか命はおわる!
を意識していれば病も遠のいただろうにと残念に思う事でした。
その後緩和ケア病棟で、癌は抗がん剤治療しながらも脳にも転移してたと。それなら
こんなに体力消耗する抗がん剤治療する必要があったのか❓と疑問に思えてなりませんでした
本人のギリギリになっての後悔した言葉がわすれられません。
「姉ちゃんありがとうや!、」そう言って自分の誕生日に旅立ちました。
その後、49日の頃に私の夢枕に出てきて
「俺は東の空にはまだ行かない。この家にいる」と。そうなんだー
まだ家にいるんだねと仏壇に言葉かけながらお酒をついでます。
霊の存在を感じながら供養してます。
弟から学ぶことは未病から予防医学。
運動、栄養、睡眠
普段からの小さな努力の積み重ね。
自分の足で歩ける健康管理いたしましょう
肺がんを宣告された時で放射線治療を望み私も情報を取り、川崎市の病院
で「サイバーナイフ」治療を受けさせた。
その後は島の病院に差し戻された。結果
は3か月後にしかちいさくなってるかはわからないとの事。暫くして「抗がん剤治療」を勧められて
いた。
本人は川崎市に時でも既に足がフラフラ状態で飛行機に乗せるのも車椅子クレーン車
降りるときもである。
そんな弟を慣れない電車の乗り継ぎをしながら連れていく私もへとへとでした。
「普段から歩いてないからだよ」と一言は愚痴った。
島に帰省して少しは放射線サイバーナイフ治療をしたことで落ち着いていたが島の
担当医は矢継ぎ早に「抗がん剤治療」をすすめてきた。
当然な医療の世界である。
何クールを言われたのか。
後1回で終わる頃まで最悪なコロナで面会出来ず
面会出来た時には70キロ位あった体重は50キロの瘦せてフラフラの弟の姿!
思わず絶句!
今後の「治療方針」を話し合いたいと呼ばれたのです。
「抗がん剤治療の効果は?」の問いに「余り効果が見られない」と
それであとの最後の抗がん剤治療をして次の抗がん剤治療に移行したいと思います。
との言葉に
「やめた方がいいと思います。私が決めることは出来ませんが体力的に耐えられない
と思います。」
弟
は自分でも判断が出来なくて私に相談したかったようでした。
「最後ですので今なら白血球の値も上がってますから耐えられるので。」
私が
いい結果も出てないし、癌も小さくなってないのでやめなさいと忠告したのに打たせたみたいでした。
その後にこれ以上抗がん剤治療はしないとの選択に緩和ケア病院を言われたのです。
本人はその後サイバーナイフの担当医に電話したようでした。
「もう一度いきたいと思います」と。
抗がん剤治はもう少し後でも良かったのではと本人が思ったみたいでした。
所が不運にも時はコロナで飛行機も減便!本人の体力もない。
希望を失い失意の日々を悶々と過ごすことになったのです。
私的にはこれが彼の「健康に対す意識の低さ」と認識してても
「何とかしてあげたい」の祈りをする日々でした。
「普段からいつか命はおわる!
を意識していれば病も遠のいただろうにと残念に思う事でした。
その後緩和ケア病棟で、癌は抗がん剤治療しながらも脳にも転移してたと。それなら
こんなに体力消耗する抗がん剤治療する必要があったのか❓と疑問に思えてなりませんでした
本人のギリギリになっての後悔した言葉がわすれられません。
「姉ちゃんありがとうや!、」そう言って自分の誕生日に旅立ちました。
その後、49日の頃に私の夢枕に出てきて
「俺は東の空にはまだ行かない。この家にいる」と。そうなんだー
まだ家にいるんだねと仏壇に言葉かけながらお酒をついでます。
霊の存在を感じながら供養してます。
弟から学ぶことは未病から予防医学。
運動、栄養、睡眠
普段からの小さな努力の積み重ね。
自分の足で歩ける健康管理いたしましょう
Posted by コメジロー at 21:39│Comments(0)